こんにちは!
動画制作を主にwebのお仕事をしております なかまゆです。
自己紹介ページを覗きにきてもらえてとてもうれしいです。
私なんてスキルも貯金も勇気もない!
そんな方に「動画編集とwebマーケティングを仕事として必要とされる人になり続ける方を身に付けてほしい」と本気で思っています。
なぜか…説明させてください。
私は現在、動画編集とwebマーケティングの知識を学びながらそれを活かすことで
安定して月30万の収入を得ています。
そういうと「もともと何か特別のスキル持っていたのでしょ?」と思われがちですが、
1年前まではどこにでもいる普通の40代の会社員でした。
なんなら、PCで触るものといえばワードくらい。
Excelは出来上がった計算式に数字をいれる程度。
これまで経験したことも、多くの女性が経験していることしか経験がありません。
「私は在宅でできるスキルがない!」
「もう40代」
「でもこのままの自分では嫌!」
と思っている方に45歳でも動画編集とwebマーケティングにチャレンジできた方法を
わかりやすく伝えたいとおもいます。
このブログを見ると、どんな初心者の方でも未経験から動画編集と
webマーケティングスキルを身に付けて
1年で在宅ワークで月30万安定した収入を得ることが可能です。
(私は45歳から挑戦し現在月40万以上の収入を得ています。)
webなんて苦手!
でも在宅ワークに憧れている!
今からでも学べるなら・・・できるのかな?できる方法を知りたい!
そんな方は多いのではないでしょうか?
実は私もそうでした。
一生懸命仕事はしてきたものの会社の給与なんてあがらない!
だからといって転職する勇気はない。
しかも40歳を超えている!
でも40代、何かやるなら最後のチャンスでは…その通り!
ただ、私はたくさんのスクールに自己投資し回り道をしてしまいました。
周り道しない方法をお伝えします。
その前に私の生い立ちをお読みください。
生い立ち
高校時代に先輩後輩として出会った父と母のもと大阪の小さな町で生まれました。
商社勤務の父・専業主婦の母のもと…といえば聞こえ良いのですが、父と母は若い頃お金がなく苦労したそうです。
ただ、そんな話は小さな私は露知らず。なんの不自由もなく大切に育ててもらいました。
私の父は繊維業界の会社員で本当によく働く人でした。
そのため、転勤も多く小さい頃から何度も引っ越しを繰り返しています。
幼稚園時代から、明日からは「関東の新しい幼稚園」というのは普通のことで、
次の幼稚園では「みんなハーモニカがふける」など、急に環境が変わる事が多くありました。そのたび、母が家でなんでも楽しく教えてくれました。
なので私は環境がかわることも
みんなが出来ることに後で取り組むことも不安に思うことなく育ちました。
小学校に入ってから引っ越した、新しい街ではローラースケートが流行っていてローラースケート出来ない私の練習に父が付き合ってくれたことも今でも大切な思い出です。
でも、困ったこともあります。
小学校3年生の2学期の転校。新しい小学校では「割り算」をもう1学期でみんな習っていて…前の小学校では習っていない…。何も書けないテストを提出したときの泣きそうになる不安は今でも鮮明に覚えています。
その時も母が帰宅後、私が負担に感じないようすこしずつ教えてくれました。
その頃父が独立しました。バブルとともに家も持ち物も生活も少しずつかわっていくことを幼いながらに感じるようになりました。
遠い地域へのお引越しはなくなりましたが、関西圏の新興住宅街への引っ越しは数度ありました。新しい街に住むことには慣れていた私。中学生のときに「来年●●の街に家を建てるので高校は転校のないように私学を選択するのはどう?」と両親に言われ私学を選択。高校通学前に、今日は「新しい家に帰ってね」と駅名と住所を渡されたこともあります。
「そんな引っ越しばかり嫌じゃないの?」と聞かれることもありますが、
たくさんの愛情と何不自由なく育ててもらったので嫌では無かったです。
今思うと、新しい環境にすぐ馴染めること、初対面の人が苦手ではないことは
この生い立ちのおかげだと感謝しています。
学生時代
高校時代
高校は女子高に通いました。当時高校生の間で流行った雑誌で「関西で一番可愛い制服」に選ばれる学校で、そのステイタスで選びました。校則が膝上10センチ・星の形の校章は自慢でもありました。
いつしかドラマの中の恋愛に憧れるようになり、大学は「絶対共学に行きたい!レンガの学校で恋愛したい!」という将来性のない夢をもって過ごした3年間でした。
【大学時代】
本当にレンガの校舎をもつ大学のみを選び受験。その中でも経営学部を選択。
理由は「女子の比率が少ないから」という中学生男子と脳内がかわらないモテたいだけの考えで進学。それなりの普通の大学生活を楽しみました。
大学に入って気付いたことは、女子高時代の友達は短大に進んだ子は国公立の男子を選んでお付き合いする。大学進学を選んだ子は自分で有名大学に進学。
お嬢さま学校で知られる女子達の頭の中には将来自分がどうなりたいかが、根付いていたことに後になって気が付きました。レンガだけで選んだ私はのちに「雑草魂」と言われる大学出身者として世間に揉まれることをこの時は知りませんでした。
ちょうどこの頃、バイトと飲み会ばかりの大学生活にも飽きてきて大学推薦の交換留学を目指すようになりました。自分でもお金を用意したいと時給にひかれて友達とキャバクラでアルバイトをはじめます。
キャバクラといっても大学生しか勤務できないということを売りにしている昼キャバクラ(というのが当時ありました)です。有名女子大のお嬢さまがたくさん所属する華やかな世界で私は接客や営業の面白さを学びます。
誰がみてもかわいい容姿を持つ子はそれだけで指名がとれます。そうでない私は、話し方・仕草・トーク内容 これが指名に繋がるのです。
その頃からいただいた名刺に似顔絵をかく習慣がつきました。
そしてその時お話しした内容をメモする。
お会いした日・時間・特に印象に残っていること。
営業電話もこのころから経験することになります。
お仕事の邪魔をしないお昼休みに数分だけ。昨日のお礼だけを伝える。
それだけで『大学生なのにできた子』と指名に繋がるのです。
普通の大学生のアルバイトでは考えられないくらい給与を頂ける半年間でしたが
世の中には可愛い子はたくさんいる。若いのは一瞬。
もっと自分が認められる場所でスキルをつけなきゃ!と20歳ながらに客観視できるようになりました。
親にバイトがばれ怒られ、家庭教師のバイトに切り替え
貯めた貯金を持ってイギリスへ1年留学しました。
帰国後、「英語を使える仕事ならなんでも良い」
そう思いベンチャー起業の営業職に就職します。
就職・営業時代
営業職はとても楽しかったです。
飛び込み営業もテレアポも…そして商談も大変ではありましたが苦痛ではありませんでした。
これも「こんにちは」と自分から挨拶をして周りから投げられる最初の視線に慣れた幼少時代。キャバクラのアルバイトで培った挨拶や話の工夫など…経験が活かされていました。
そうして苦を感じることなく営業を楽しみましたが朝から夜中まで仕事する毎日。
夜中に帰って倒れこむように眠る毎日がこのまま続くのかな…と思うようになりました
友達の「結婚しました」ハガキがが届く度、なぜか落ち込む毎日。
そのタイミングで「30歳までに結婚したい」という、謎の女子的思考の強い3つ年上の当時28歳の主人と出会い半年で結婚し退職を決めました。
結婚・流産・不育症
結婚して専業主婦をしていた期間は半年。
1日が長く苦痛になり、当時インストラクターを募集していた化粧品メーカーに再就職しました。子どもが出来た時に営業職は難しいだろうと考えていたため、内勤職を選びました。
その後、妊娠するも流産を2度繰り返し不育症と判明。
結婚して出産して…と皆が当たり前に通る道が当たり前ではないということを初めて知りました。治療を経て双子を出産し1年半の育休後現場復帰します。
再就職・子育てとの両立
スキルアップ=営業?
そこで営業課から声がかかります。「当社初の女性の営業課長をめざしませんか?」
各段に上がる給与とやりがいひかれ営業職にチャレンジ。
主人には「こどもたち大丈夫なん?」と心配そうな主人に笑顔で「大丈夫!頑張る」と答え日々をこなすも、やっぱり家事に歪みが入り、主人はもちろん母のヘルプを必要とするようになってしまいました。
【子どもたちのSOS】
今日は遅くなります
この日は遠方でのお客様アポ
そんな日に限って子供に熱がでる…そのたびに母達が交互に駆けつけてくれました。
今思えば子どもたちのSOSだったと思います。
【会社がなくなる…】
主人に心配をかけ…
子どもたちのSOSを正面から受け止めることができず…
母たちの手助けに思いっきり甘え…
家庭を犠牲にして働いてきたのにもかかわらず
会社はある日M&Aで関西本社があっさりなくなります。
退職金も出ず…夏休み中小学1年生の二人を連れて弁護士事務所にいって手続き
労働基準局で調べものなどをする夏休みを過ごしました。
でも電車に乗って外でご飯する時間を息子たちはとても嬉しそうに過ごしてくれました。
その笑顔が救いにもなり、私が会社で頑張っていた時間は何だったのかな…と思うようになりました。
その後、転職により再就職。
これまでの働き方への反省を活かし週末くらいは確保したいと広報として採用された会社で平日限定で思いっきりお仕事をしていました。
ただ成果が見えにくい業務は給与がそこまであがることなく
時々「あの頃は良かったな」と営業時代の当時を思い出す日々を繰り返していました。
その後、大学時代より憧れていた老舗美容室からオファーいただき、
土日祝休み・給過去最高額・副業可・パリコレや韓国への交渉出張あり…
など好条件での採用でしたが…コロナでたちまち経営悪化。
閉店手続き・退職希望者の対応・コロナ助成金の申請。
土日祝日はもちろんコロナ禍の車通勤で早朝から夜中まで勤務が続く毎日がスタートしました。
そんな中、母の癌が見つかります。ステージ4。
病院の付き添いしたいのに…忙しい私に遠慮して通院日を知らせない母。
一緒に残務処理をしていた唯一の残った仲間から「無理しないでお母さんについてあげて」という声をかけてもらったのをきっかけに退職を決意します。
あのとき初めて、会社で、働く仲間の前で大泣きしました。
あとにも先にも会社で泣いたのはあの時が初めてでした。
営業しかできない女の末路
母の手術は無事成功します。ただ、まだまだ体調は万全ではありません。
何かあったときすぐ駆けつけてあげるには…
自分が子どもたちに何かあったときかけつけてもらったように…
営業経験は営業職を選んだら活かすことができます。
ただそれとは別に時間を会社へ提供することが条件となります。
その時間の使い方に疑問をもつようになりました。
私には時間を自由に管理できるスキルがない…
現場にいけば仕事はあるかもしれない。
でもこれだけ世の中が「在宅ワーク」となっているコロナ後のいま
私には現場仕事しかないのだろうか…。
何か手に職をつけたい!そう思うようになりました。
そこで一番最初に学んだのが動画編集です。
【動画編集とwebマーケ】
母のもとにいつでもかけつけることができるようにと、
失業保険をもらいながら、ハローワークコーディんグの基礎、それとは別にオンラインスクールで動画編集を学びました。
そのときに初めてスペックの高い(動画編集できる)PCを購入しました。
動画編集はできるようになるものの、お仕事がとれませんでした。
そして結局、営業の日々が始まるのです。
自分のスキル(動画編集)を販売する方法。
会社員時代では売っても売らなくても給与はある。
でもフリーランスはそうではありません。
販売できないとその月の対価を得ることができないのです。
今では動画で定期的なお仕事をいただけるようになり、好きな場所でお仕事しています。
何かあったとき時間を自由に使うことのできる毎日に満足しています。
それは私がマーケティングを学んだ結果です。
そして更なる収益を得るためにwebマーケを学んでいます。
最後に…
このブログは多くの方に読んでいただかなくてもいいのです。
「私には在宅でできるスキルがない!
「もう40代だし」
「でも挑戦するなら今なのではないかな…」
と思っている方に、45歳でも動画編集とwebマーケを学んで月収30万を安定できた方法を伝えたいとおもいブログを綴ります。
そしてもう一つのモットー。
むずかしい言葉は嫌い、どちらかというとPCは触れるけど苦手で初心者!
だって私は接客(営業)経験しかないし…
という方になるべくわかりやすい表現で、お届けしたいと思っています!